「房総のいしずえ」について

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以下の文章は、毎年行われている新遺族と国民救援会との交流会に配布されている資料をもとにサイト管理者の責任で引用致しました。

「無名戦士の墓」について
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 毎年3月18日に行なわれている「解放運動無名戦士合葬追悼会」は、式典後青山霊園にある「解放運動無名戦士墓」に合葬者の名前を刻んだプレートが納められてる。
 この墓の由来については、毎年発行の合葬追悼会案内リーフに述べられている通り、作家細井和喜蔵の死後、10年経って友人たちによって建立されたもので、第一回合葬追悼会が行なわれる13年前であった。

 細井和喜蔵は、1897年(明治30年)5月生まれ、1925年(大正14年)7月「女工哀史」を出版。同年8月、急性腹膜炎で死去、享年28才だった。
 細井の死後、作家藤森成吉らが「細井和喜蔵遺志会」を結成、改造社からの印税相当額が遺志会に支払われ、この資金で労働争議等を支援した。
 1935年、遺志会が青山霊盟に「無名戦士墓」を建立、和喜蔵の遺骨を納める。
 無名戦士墓としたのは、当時解放運動に身を投じた人達の中には、和喜蔵と同様に葬るべき墓のない人達もたくさんいた。そうした人達の「共同の安息地」としてこの墓を使おうとの意図をこめたものだった。
 1943年3月、労農弁護団大森詮夫(あきお)が40才で死去、遺言で同年10月無名戦士墓に納骨。当時労農救援会の会長難波英夫はこの話を聞き心をうたれた。早速事務局長の太田慶太郎と「無名戦士墓」を訪れ、この墓を公然と発表し、解放運動の途上でたおれた先輩を調べて合葬すると同時に、新しく運動の途上で亡くなった仲間も合葬してはどうかと遺志会の藤森や山崎今朝弥弁護士とも相談し合葬追悼会を提案することにした。
 1947年12月に開かれた救授会の全国大会でこのことが提起され、翌年1948年3月18日に合葬追悼会を開くことを決定した。あわせてこの墓の管理が遺志会から救援会に引き継がれ、新しく、藤森の手で墓石に「解放運動」の四文字が書き加えられた。
 追悼会の運営は、第1回(1948年)〜第3回(1950年)まで実行委員会を結成して行われたが、1950年の朝鮮戦争勃発とともに激しいレッドパージに見舞われ、止むなく翌年から世話人会によって運営された。1959年の第12回追悼回から再び実行委員会が呼びかけられ、共産党、社会党、総評、中立労連、全日農、東京地評、平和委員会、救援会、3・18世話人会が参加した。
 1976年の第29回追悼会に、共産党を除名された人を社会党、総評が推せんしてきた。しかし、共産党などが反対、結局実行委員会全体の合意の得られない人の合葬はしないことを決めたが、翌年第30回追悼会に再び社会党、総評がこの人の合葬を強く求めたため実行委員会の合意が得られず、救擾会が単独で開催した。第31回追悼会は実行委員会が再開されたが、第32回追悼会からは社会党、総評は参加しなくなった。
 救援会はこうした困難をのりこえて合葬追悼会の歴史と伝統をしっかりと守り、今日では心ある労組や民主団体の協力を得ながら、救援会が責任を持って毎年欠かすことなく追悼会を続けている。

「房総のいしずえ」について

 東京で開催される追悼会だけでなく地方でも合葬追悼会をやったらどうかという声が大きくなり北海道で1948年に碑が建立されたのを始めとして、全国で16道府県に顕彰碑が建立されている。
 千葉では1975年佐藤二郎、野崎仁が「千葉具にも顕彰碑を」と提案。1986年になって山本喜三郎の提唱で、共産党千葉県委員会、国民救援会千葉県本部、いしずえ会、治維法同盟千葉県支部で発起人会を開く。その後各地の顕彰碑を見学・調査を繰り返し、1989年建設委員会を発足12団体22名が参加した。1992年顕彰碑建設地を「御宿霊園」に決定。
 国民放後会、いしずえ会、治維法同盟、日本共産党、千葉労連、農民連、千葉土建、新婦人、千商連、民医連、自由法曹団、民青同盟の12国体が参加した建設委員会を「建設する会」と改めた。(現在は年金者組合も加わり13団体で「運営委員会」として、追悼会の運営、碑の管理などを行なっている)
 碑は1996年に完成した。墓地の広さは4区画で40u、碑の大きさは、高さ270cm、幅150cm、厚み70cm、重さは約10トン、石は愛媛県産の通称「青石」が使われた。「房総のいしずえ」の書は東金市の在住の書家斉藤一夫氏(1997年9月逝去)に揮毫していただいた。
 建設費は約1900万円で、心ある方々のカンパで完成した。
 これまでの合葬者は、青山霊園に合葬された方々のうち千葉県ゆかりの方々で、昨年までに665名の方が合葬されている。

 

「いしずえ会」について

 第1回追悼会直後から「遺族会をつくりたい」の声があがったが、実現したのは1954年、第7回追悼会後の遺族懇談会で、布施光子(故布施辰治夫人)が会長に選ばれた。これが契機となり、塩沢富美子(故野呂栄太郎夫人)が中心となって東京遺族会を結成、その後各地にも遺族会が結成され「いしずえ会」と呼ばれるようになった。
 千葉県では、1982年に斉藤きみ(2000年2月逝去)らが中心となって結成され毎年の追悼会での世話や、5月には救援会と共催で前進座観劇と無名戦士墓の墓参を行い新旧遺族と救援会との交流を行なってきている。

※昨年2003年9月21日第9回追悼会までに826名の解放運動無名戦士が顕彰されています。(引用者)
※2004年9月19日第10回「房総のいしずえ」合葬追悼会が行われました。合葬者は31名でした。「房総のいしずえ合葬追悼会」も第十回の節目を迎え、第一回から 第十回までの合葬者の名簿が冊子(「房総のいしずえ合葬追悼会」運営委員会編)になりました。第11回房総のいしずえ合葬追悼会は、2005年9月25日が予定されています。

 

関連ホームページ 解放運動無名戦士の墓とは?
             和喜蔵顕彰事業の紹介                         

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